日本のカラクリ・メモ2


『日本人だけが知らない日本のカラクリ』
2000.11.15発行 パトリック・スミス著 森山直美訳 新潮社


に、よれば、



 芯にある問題は、
《education》の意味で使われている「教育」の一語にはっきりしている。
「教育」は、「教える」と「育てる」という意味の二つの漢字から成る。
この2語の相違点に、日本の学校の悲劇的失敗が存在する。


教育方法、教科書、教育課程は、文部省によって決められる。
すべては、知識を操作する生徒の能力を軽視して、
知識を書き取ることに力を入れている。


ということは、「育」を犠牲にしている「教」である。


生徒は考えるのではなく、指示されれば繰り返すことはできても、
関連付けることはできない膨大なバラバラな事実を蓄積することを教えられる。


それは、たまたま起こったアクシデントでもなければ、
ふとした失策でもない。


まる暗記は子どもにとって次なる依存のレッスンとなる。


考えることは主体的な行為だが、
与えられたものを記憶することは権威に頼ることである。



 
 まる暗記の評価は、競争の厳しい受験システムによって行われる。
試験は、学習の一課程が終わった時点ではなく
入学時の必要条件として実施される。
試験はいっせいに行われ、いっせいに終わる。
学生達が神経を張り詰めた状態で
準備に多くの時間を費やすのはそのためだ。


結果は合格か不合格かのどちらかで、
努力の成果を見せる二度目の機会はない。


本人が学力をつけたかどうかは問題ではない。


要はたんに、その卒業証書を手に入れれば
大方の特権と社会的認知が得られるような学校に入ることであって、
学力は問題外なのである。


猛烈な競争と、批判的思考を養うことのない知識の詰め込みから、
どのような卒業生がうまれるか、容易に想像がつく。


制度がつきつける要求、すなわち受験地獄の数年間、
他のすべての生徒は敵になるという状況は、
探求する知性ではなく、
日本人は生来そういうものとされている
心の狭い機械のような人間を生産する。


彼らはヒエラルキーのなかで
できるだけ高い地位を確保することに目を奪われ、
同等のものと健全な絆、
つまり水平的な人間関係を築くことができない。


不自然にも内に目を向けており、
(当局の画策によって)自分達の歴史の大きな断片に無知であるために、
公共問題にはさほど関心がない。


わずかばかりの慣習的な舞台装置(たとえばカラオケバー)以外の場所では、
ほとんど主体的な意識を発揮することがない。



 最後までがんばり抜くものは、社会に生きていく条件付けをされた人、
つまり「シャカイジン」になる。
彼らは何を身につけたのだろうか。
日本で生活するためには何が重視されているのか。
・個人としての人格を秘密にすること、
・忍耐し、逆境にあってもひたすらがんばること、
・そしてコンフォーム(大勢に順応)することである。


「日本人」として及第点をとるためには、
このようなことが必須の習性なのだ。


「イジメ」や体罰が、表向きには非難されながら、
相も変わらずよく起こる所以である。


文部省は、極端なケースでもないかぎりは、
それらの問題にほとんど関知しない。
何もしないことが当局の方針を知らしめる最上の方法だからだ。

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改行、「・」を打ったのは、私。